今日は、『きみに読む物語 - The Notebook』(2004)を観ました。丁寧に丁寧にと作られたのが伝わる、優しくて静かな物語。
語られる物語と語られる物語で語られる物語は同時に進行している。ここにズレはありません。メタフィクショナルな意識もないのはもちろんで、どうもこういう作品を観ると私は、まったく関係無い話だったら……などと想像してしまうのだけれど、もちろんそんな展開にはならない。
語られる物語で語られる物語、つまり作中作における語りえぬはずの描写、殊に映像媒体だから、そこに妙に目が行ってしまうのだけれど、この作品ではスルーしなくちゃならないのです。
うまくまとめるなあと感心したのは二度目の別れのとき。一度目の別れと全く同じに喧嘩をしながら別れるのだけれど、ここでは一度目の別れのあとに書かれたものの届くことのなかった手紙を手にしている。その手紙は、あたかも一度目のあとのように読まれる。つまり、ここでようやく届くのだ!
アリーがノアのもとへ帰ってきたとき、彼女にとっては懐かしく感じるほどの時間が経過しているのだけれど、ノアにとっては時間が連続的だと思わせる、タイムパラドックスのような歪み(さらには、遅れて届く手紙)があって、そして愛だけがそれを超えられる、というわけです。そうしてラストの奇跡や愛の会話に繋がって行く。
しかしアリーの婚約者ロンのいう三つの選択肢――ノアを撃ち殺す、ノアをぶん殴る、アリーと別れる、というのはこれでいいのだろうか?
ノアと二度目の別れを経てロンのもとに引返したアリーは、この描写ののちにノアのもとへ行くことになるのだけれども、ロンのいうようにどれを選んでも別れるということであって、「だから戻った」という印象が残ってしまう。
ノアの読み聞かせる物語の作者はアリー、ゆえに「The Notebook」は未完で、語られる物語を語るメタ・レヴェルが続編となる。アリーの本にあるように、読むたびに帰ってくる(だったかな?)というとき、メタ・レヴェルの「The Notebook」を読むたびに帰ってくるものはなんだろう? あるいは、これは既に読まれていて、しかしはじめて観るときが再読なのである、という言いかたもできるだろう。すなわち、この物語の奇跡はありふれている、誰にでも起こりうるものなのだ、と読む(書く)ことができるのです。
観終わってからふたたび本をひらき、冒頭の幻想的なシークエンスを観る、そこで私はふたたび本を閉じる。

